バンコク王室と一村一品プロジェクト(OTOP)
■バンコクのおこり
バンコクは、1782年から200年余りを経て人口600万人を超える東南アジアの中でも最大都市に発展しました。
もともとバンコクは水辺のほんのいち村にしかすぎませんでした。
14世紀半ば、タイ人による国家アユタヤ王朝が建国され、近隣諸国からの侵略にあいながらも、王室独占貿易で膨大な富を築き、
国際貿易都市として、西洋諸国にその名を広めた。
この時代バンコクは、チャオプラヤ川を往来する船を監視する重要な防衛の拠点となっていました。
■アユタヤ王朝の滅亡とトンブリ王朝の成立
チャオプラヤ、パサック、ロッブリーの3河川が合流して作り出す大デルタの安定した稲作と海外交易のもたらす富で版図を拡大し、400年を越える栄華を誇ったアユタヤ王朝は、長年のビルマとの戦争の末、1767年に滅亡に追い込まれます。
その時、ビルマ国境に近いターク、カンペンペットの領主に任じられていた後のタクシン王は、一度タイ南東部のラーヨンに退き、兵をまとめてビルマ軍を打ち破りました。
彼は、タイの宗主権を回復すると、都を現在のバンコクの対岸、チャオプラヤー川の西岸トンブリに移します。トンブリ王朝の成立です。この地は、今も暁の寺院や水上マーケットで観光客の絶えない地域です。
■トンブリ王朝から現ラーマ王朝 チャクリ王朝)へ
トンブリ王朝は、タクシン王の常軌を逸した暴挙のため15年で途絶え、そのあとを受けて、王位に就いたのが、現ラーマ王朝チャクリ将軍です。ラーマ一世は、1982年、即位と同時に、都を対岸の現バンコクへ移しました。バンコクに都を移した最大の狙いは、ビルマ軍の再来に備えることでした。王は、西岸のチャオプラヤー川と新たに建設した大きな運河で新都を取り囲み、川中島の堅固な要塞としました。そのため、さしものビルマ軍も、この要塞を攻め取ることが叶わなかったのです。
ラーマ一世はタイ族の栄光であるアユタヤ王朝をバンコクに建設しようと精力的に動いたが、既にそこには中国の豪商などが住み着いていたため、サンペン地区に移住させた。
王都の重要な部分には、アユタヤの都に従い、城壁で囲まれた王宮、王室守護寺院(ワットプラケオ)、副王宮が築かれました。
1783年、バンランプー運河が建設され、王都は二重の川中島に浮かぶ、頑丈な要茎の島となり、内側に城壁と砦が建設されました。運河工事には1万人のクメール人戦争捕虜と、城壁工事には5千人のラオス人捕虜が動員されました。
19世紀前半になると、中国との貿易が盛んになり、王室の財政は潤い、バンコクは繁栄しました。
19世紀半ば、バンコクの人口は40万人になり、そのうち半分は中国人、12万人がタイ人、その他はベトナム人など。
バンコクは外国人戦争捕虜によって造られ、外国人の商人たちを受け入れるという特殊な都市になりました。
■バンコクの人々の暮らし
運河地域には集落ができ、運河に沿って家や寺院、商店などができ、生活雑貨や食べ物などが運河を巡るという風景が見られたようです。
中国商人の中には、貿易で成功し、莫大な富を得て、タイ王族や官僚貴族と関係を結び、上流社会へ確固たる地位を築き上げる一族も多く、現在でもタイ社会の中核を担っています。
■西洋文化
1855年、東南アジアの国々が植民地化されていく中で、ラーマ4世は、イギリスとボウリング条約を締結し、自由貿易を開始。
日本も同様にペリーの来航から開国の道を歩みます。
チャオプラヤ川沿い王宮の南に税関があったため、西洋人が多く移住した。オリエンタルホテル、商社、外資系銀行などの建設されました。
現在は高級ホテルが多く立ち並んでいる地域ですが、その頃の面影が垣間見られます。そのうち西洋人が自動車を持ち込むと道路を整備する必要が出てきて、王都と西洋人が住む辺りを結ぶ通り、サンペンから西部の商業地域を結ぶ通りなど、道路が急激に整備されました。
1896年、3月26日バンコクーアユタヤを結ぶ鉄道が開通しました。
■大都市バンコクへ
1869年、スエズ運河開運により、ヨーロッパとアジアの後悔距離が大幅に短縮され、タイの貿易総額は、30年で10倍に拡大しました。
この頃の輸出品は、タイ米やタイ北部のチーク材でした。それによりバンコクには、工業地域ができ、職を求めて地方から労働者が押し寄せ、人口が爆発的に増加しました。
王都バンコクは200円を経て、城壁と運河に囲まれた防衛都市から国際貿易都市、工業都市としての機能を集中させ、大都市に変貌を遂げました。
田園風景はなくなったものの、高層ビルを背景に、路地を入ると古い町並みが残り、屋台で物を売る、屋台で楽しそうに世間話をする人々、
裸足で走り回る子ども、忘れていた懐かしい風景がそこにはあります。 |

ラーマ一世

王宮

ワット・プラケオ

ラーマ9世
(現プミポン国王)
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王は権力を維持するために、王は霊力を備えた神的存在であることを演出してきました。
そして、高い塀で囲まれた絢爛豪華に聳える王宮は、王の霊力をもって、宇宙とこの世を結び付けるステージと考えられていました。
トンブリの タクシン王がアユタヤ貴族たちに追い落とされた後を受け、新しく王になった、チャクリー将軍(後のラ−マ一世)は、対岸のバンコクに国家統合の象徴となる王宮と王室寺院を建設し、タイ人の誇りである栄華をきわめたアユタヤを再現しようとしました。
王宮の機能
王宮すべてが城壁で囲まれて、その全長は1.9kmに及び、この城壁内には、王族の住居、国務を司る役所、王室専用寺院(ワット・プラケオ)、さらに、警備の兵隊たちの宿舎、象小屋、馬屋、商店などが立ち並び、最盛期には、4,000人もの人々が暮らしていました。まさにひとつの町の様相を呈していました。日本の皇居のイメージとは、かなり違うようですね。
創設から残る宮殿
代々の王によって、敷地内に様々な建物が建築されていますが、創設期からのものは 、以下の二つの宮殿です。いずれも複数の建築物の集合体で、それぞれに目的、役割があります。
デュシット・マハプラサート宮殿
国王の公式な行事の舞台となる場所として建設されました。
北側の部分は、謁見の間があり、王のお印である九層の白い傘がつけられた、真珠貝の装飾が施された玉座が置かれています。南側の部分は、国王の居所となっていました。
純粋なタイ伝統建築様式で作られています。
建物のレイアウトは十文字になっていて、屋根の先端は、須彌山(スメール山)を象り、神々の住む場所を表しています。
四方を正装で王冠をつけたガルーダが支え 、切妻の部分には、ナライ神の姿が見えます。(ナライ神ー人間の姿をして現れ、王と連係して人間を救済する。)
プラ・マハ・モンティンエン宮殿
謁見に使用されたアマリンタラ宮殿。国王の即位式や王室の儀式が執り行われるバイサル宮殿。ラーマ一世はここで崩御されています。そして、王の居所、寝室として使用されたチャクラパットピーマン宮殿の三つの建物から成っている宮殿です。
ワン・ナイ(宮殿の中)といわれ、王宮内には、日本の大奥と同じようなものがありました。王様以外の男性は足を踏み入れることはできない、閉ざされた場所でした。侍従も警護人もすべて女性でした。
副王の存在
副王とは、王様の代理のような存在で、通常王様の兄弟が任ぜられました。副王は独自に軍隊を持ち、王の持つべきもの全てを持っていましたが、最終決定権だけは、持つことができませんでした。ラーマ一世の副王は、王とのすさまじい確執の末、志半ばで病死しています。この副王宮には、その副王の思いがのりうつっているといわれ、次の副王は別の場所に居を構えていたそうです。
西欧諸国との貿易がさかんになるラーマ五世時代、西欧人には、副王制が理解されにくく、様々な混乱を引き起こしたので、廃止されました。
国立博物館
副王制度廃止後に、1887年、全面に壁を施し博物館として改装されました。
東南アジア最大級の博物館で、タイ各地から集められた国宝級の美術品、工芸品が納められています。
「王室プロジェクト」とは、王室が中心となり、国内地方の特に恵まれない地域の人々の援護、伝統工芸の保護と振興を目的として設立、実践されているプロジェクトです。
タイでは、1980円以降急激に発展してきましたが、タイの経済は不均等な二重構造になっています。農村では、都市部との収入格差や貧困問題が生じてきました。
この問題を解決するため、タクシン首相の指導の下、タイ政府は、貧困層の収入源確保、拡大に重点を置いた持続的な政策を打ち出しました。農村の自主自立と潜在能力の育成を通し、地域経済を活性化させるのが狙いです。
植林・米作り・魚の養殖・花の栽培キノコの栽培・牛乳やバター・ジュース・蜂蜜・手作り商品、シルク、手工芸品、タイ雑貨、化粧品、チットラダ農園製の無農薬栽培、「麻薬の代わりにコーヒー栽培を」を目的にはじめられた本格タイコーヒー、王室財産管理局(CPB)傘下の食品にいたるまでさまざまな商品があり、指導ボランテイアを募り、王室プロジェクトとして開発をしています。
このボランテイア活動は大きく二つに分かれ、
1.地域で上記の産業振興を実際に指導するボランテイア
2.生産した商品を消費地で販売するためのルートを作るボランテイアに分かれて生産・販売までを指導するポランテイア活動です。
地域振興・経済活性化に加え「国民の自発性・自尊心の醸成」を目的としており、それはタイ国全体のゆるぎない成長・発展につながると期待されています。
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シリキット王妃
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